思い出の記
2002年3月に、家業のメインバンクが破綻し、今後の不安が募りました。
「藤掛ファンのページ」の管理人を千葉さんに頼み込んで引き受けてもらいました。
管理人を一時中断する時に、人の目を気にせず掲示板に投稿した文章です。
当時ブログなるものがたぶんまだなく、掲示板に場違いかもしれないと思いながら、最後のわがままと思って書き連ねたものです。



思い出の記、その1「音楽との出会いは縦笛」 投稿者:管理人  投稿日: 324()092049

今日は絶好の行楽日和ですが、パソコンの前に座って()、音楽に関係あることないこと思いつくままカキコしてみようと思います。

私は昭和33年(1958年)5月15日生まれ。父、母、二つ上の兄の4人家族。父は田畑義男、母は美空ひばりのファン。兄は私が中高生の頃、ボブディランやビートルズをよく聞いていた。家族で楽器を弾く人はいない。もちろん、私もピアノや音楽教室などいったことがない、いわゆる当時のふつうの音楽環境。
当時男の子はピアノやオルガンを習いに行くのは、きわめてまれ。男がピアノやってるというとどちらかというと、いなか静岡では羨望がすこし混じった敵意みたいな、なかまはずれにしたるというような()、男は外であそぼうぜという感覚でした。ほんといえば、そういう教育にお金をかけられる家庭が、とてもうらやましかったにちがいありません。学習塾ですら、このあいだの中学校の同級会で、「あいつは塾いっていたからずるい()」というような会話がでてたもの。

私の小学校は、低学年でハーモニカ、高学年でたて笛(ソプラノ)を習います。
ハーモニカは、吸う音が続いても、はく音が続いても呼吸困難になって()、どちらかというと嫌いでした。その点、縦笛は、私にあったようで、大好きでした。小学校4年から、50曲の練習曲にトライし、ふけるようになると、音楽の先生に昼休みなど聞いてもらって、合格するとはんこをもらうというものでした。昼休みにはその列ができて順番待ちでした。待ってるあいだは結構ドキドキしたりして、50曲最後までいけたのは6年生という、クラスの中でも平均的だったと思います。
やはり、相当練習好きだったようで、いまだに、映画音楽のゴッドファーザーのテーマ、たしかフラットが3つあった曲が吹けます。ミのフラットがむずかしいんだ()
そういえば、生まれて初めてやった音コピは、当時の男子に多大な影響を与えたアニメ「巨人の星」の主題歌。しかし、音とりの才能のなさは、その1曲にもすごく苦労したことにも現れています。今思うと()



思い出の記、その2「切手収集」 投稿者:管理人  投稿日: 324()123658

ただ今、中森明菜の新CD「ZERO〜アルバム歌姫U」を買いにいって来ましたが、3ヶ所回って売り切れ・・・残念。聞きながらカキコしようと思ったのに。

小学校時代に、はやったもののひとつに切手収集。
小遣いからちょっとずつためて、好きな切手を買いに行く。憧れは「月に雁」や「見返り美人」。いくらくらいだったか憶えていないが、とても届かなかった。私の当時の自慢は「日本三景」3枚の組切手だ。それと6歳の時に開かれた東京オリンピックの組切手。額面5円だから、当時の葉書は5円だったのだろう。
これも今大人になって思うと、子供の時のマネーゲームというか利殖の勉強だったんですね。
人気の切手は値があがる。それを見きわめて、安く買って、値上がりしたら売る。私は、とうとういつか売ろうと思って、そのまま、いつのまにかブームの下火とともに忘れていたのだけど。
この時、私より年上の人のなかに、20年後にあの土地狂乱高のバブルに踊った人達がいたのではなかろうか。それはうがった見方か()



思い出の記、その3「万国博覧会(EXPO'70)」 投稿者:管理人  投稿日: 324()125518

1970年、小学校6年の時の「万国博覧会」。
これは、高度経済成長まっただ中の、おそろしくインパクトの強いイヴェントだと思う。
今のディズニーランドの混み具合とおそらく同じくらい混み合ったのではないだろうか。
一番人気は、シンボルの芸術は爆発だぁの「太陽の塔」とアメリカ館の「月の石」。ソ連館も人気で3時間待ちは当たり前。私は日帰りで連れてきてもらったので、日が暮れてきて、パピリオンの明かりがつき始め、幻想的な雰囲気に後ろ髪を引かれる思いで泣く泣く帰らなければなりませんでした。
その後、神戸の学生時代に神戸で「ポートピア」というのがあったのですが、大阪の万博ほどは、印象に残りませんでした。
また、学生時代に初めての合コンが、神戸女子薬科大学マンドリンクラブとの大阪万博公園。
小学校の時見た「太陽の塔」がまだそのままあって、とても驚きました。今もあるのかなあ・・・。



思い出の記、その4「ギターとの出会い」 投稿者:管理人  投稿日: 324()134557

私が中学3年のころ、クラスの席がとなりのかわいい女の子が、ビートルズの大ファンで、つられて私もファンになりました()
私は、なぜか、ジョージハリスンにのファンに。あんな風にギターがひけたらと、親に頼んで買ってもらった1万5千円のフォークギター。
当時「吉田拓郎」「井上陽水」たちに代表にされるフォーク全盛時代。最初はビートルズの曲は全然弾けません。ですので、陽水の「心もよう」を、一生懸命練習しました。たしか「Am、Dm、G7、C、E7」くらいしかコードがなくて・・・あっ1箇所「F」があったか!このセーハが難関なんだ、最初の頃。
そんなんで、ギターを我流でやっていて、中学を卒業する頃には「And I Love Her」とか「Let It Be」を友達3人であわせることができるようになりました。そのころのへたくそな録音テープが、最近発掘されました。う〜ん、こりゃひどい()


思い出の記、その5「卓球」ひょっとして指揮に役立ったのか・・・ 投稿者:管理人  投稿日: 325()004859

私は、中学校の時、卓球部でした。1学年14クラスもあるマンモス中学校とはいえ、そのころ卓球ブームとかで、新1年が70人もいたのです。それだけいると、球拾いでさえ、満足にピン球に触れません。卒業の時には15人しか残りませんでした。結構きついサバイバルだったと思います。
私の子供は、私の方針で中学の時は必ず運動部、高校からは好きにしていいということだったので、やはり卓球部に入りました。様子を聞くと最初から台で打てるらしい。うらやましいことです。
さて、今日お昼に次男と卓球を体育館にいってやってきたのですが、すごいことに気がついちゃいました。それは、卓球は、指揮のタクトさばきにとてもいい下地になっていたこと!!!
たとえば、指揮の図形は右半分だけだと、表現不足で、とてもダイナミックな指揮は望むべくもありません。その点、卓球はバックサイドの球を打つのにラケットを持った右手が左腕よりさらに左側に行くことがあります。しかもすばやく! これってすごくありません?
もちろんフォア打ちも、体に近いとこから遠い所まで、自在に腕を伸ばしてふります。これほどワイドに右腕を使うスポーツはなかなかないのではないでしょうか。まさに、指揮の図形が左右に広くなる練習に最適!
しかも、相手のスマッシュをうける動作&タイミングは、指揮の裏に強拍がはいるときの先入れのタイミングにそっくりです。
う〜ん、なんとももはやこの事に、一人気付いてびっくり。誰かこのことに賛成してくれる人いないかなあ()

さて、卓球部では、5人しか団体戦に出られません。つまりは、友達もライバル。そして、勝つも負けるも個人の責任という個人戦。3年の夏の中体連が終わって、やっとクラスの友達ができました。そんな変化が、個人種目の卓球から、なにか団体戦みたいなみんなでわかちあうような物へのあこがれが芽生えました。



思い出の記、その6「静岡東高校マンドリンクラブ」 投稿者:管理人  投稿日: 325()012730

個人種目からの訣別と、ギターに夢中になっていたこともあって、ギターの弾けるマンドリンクラブに迷わず入部しました。結構大きなクラブで、新1年のギターパートだけで10人おりました。お時間のある方は以下のページご覧下さい。

1年の時の3年生って結構こわくありませんでしたか?
その時3年のギターチーフが、「鬼の○田」と呼ばれており、2年生からも怖れられるすごい人だったのです。ところが、まったくの偶然ですが、その鬼と呼ばれている怖い先輩が、兄の小学校からの親友だったのです。当然、何遍も遊んでもらったことがあり、とてもやさしく接してくれたのです。その時の2年生の驚きといったら、思い出すと愉快になります。

どうも今でもこのようなHPの管理人やってられたのも、すべからく、この時の順調なクラブ生活の滑り出しと、良い先輩に恵まれたことがとても大きいと思います。つくづく運がよかったと思います。
その3年の先輩もそうでしたが、私の一つ上のギターチーフになった稲葉先輩、この人がまたとてつもなくよい影響を私に与えてくれました。めちゃめちゃクラシックギターがうまい。おそらく100曲以上はレパートリーがあったのではないでしょうか。アストリアスやグランソロなんて圧巻!私はこの先輩のおかげでどうしてもわからない運指をおしえてもらい、目の前で見本をみせてもらい、そだててもらったと思います。私が独奏曲を弾けるようになったのもこの先輩のおかげです。
しかも運命とは、不思議なもので、この稲葉先輩は、神戸市外国語大学に進学し、私が神戸大学に合格した時、下宿探しの手伝いをしてもらいました。そして、結局、同じ下宿にお世話になることになりました。その後、質問好きの私()は、独奏曲のわからないところは、なんでも聞いて、また、見本を目の前でみせてもらい、そして、先輩がクラシックギター部の指揮者になったら、指揮も教えてもらいました。
また、大学では中田さんというやはりギターの天才がおりまして、個人指導をしてもらいました。今思うと、ほんとによい先輩に恵まれていたと思います。



思い出の記、その7「カワイのコンクール」 投稿者:管理人  投稿日: 325()014246

高校2年の時、その稲葉先輩にさそわれて、カワイのクラシックギターのコンクールに出ました。静岡の小さな大会で、出場者も10名くらいだったと思います。
課題曲(曲名がどうしても思い出せません)と自由曲、バッハの「二つのガボット」。
結果、稲葉先輩が金賞、私が思いもかけず銀賞となりました。その時のメダルはいまだに宝物となっております。
当時私はカワイのギター教室にレッスンに通っていて、その先生が審査員の一人だったことも、今思えば、よい結果につながったのかもしれません。いや、きっとそうです()

その頃、東海学生マンドリン連盟岐阜大学ブロックで、「パストラルファンタジー」が初演されました。当時、まだ、藤掛先生のお名前も知るよしもありません。



思い出の記、その8「高校時代のマンドリン合奏」 投稿者:管理人  投稿日: 325()021938

私の高校は定演はありませんでした。東陵祭という文化祭の音楽演劇発表会が最大の舞台でした。
1年の時の初めての合奏曲、「ギリシャ風狂詩曲」と「エグモント序曲」。
指揮者にあわせて合奏する、しかも女子が一杯。なんて、合奏って楽しいんだ()。うちの高校は女子は15%くらいだったのですが、マンドリンクラブは半分が女子だったのです。
2年では「受難のミサ」。合奏で体が震えるような感激を覚えたのもこのころ。たまらなく好きでした。
3年では、同じく鈴木静一氏の「朱雀門」。この曲はナレーション付きで、ストーリーも青春時代にはなかなかエキゾチックで、とても、すばらしい曲でした。
なお、この3年の時は、ギターチーフとして、ギター合奏のステージも作らなくてはいけませんでした。曲目は、ある恋の物語、二人の天使、オルフェの歌、ラ・クンパルシータ、エスパニヤカーニの5曲でした。首で合図するのですが、とても勉強になったし、楽しかったです。

私の高校って、ほとんど毎日練習がありました。曲は暗譜が当たり前になってしまうんですね。ギターパートなんて、怖い先輩の注視の中、メトロノームにあわせて、えんえんとスケールやったり、半音階やったり、基礎練習をやりました。夏なんて、汗でズボンがグッシリ、汗が楽器にたれたりしても、えんえんと続けるのです。先輩の「やめ」の一言でみんな一斉に「ふ〜」っとため息をつく。そんな感じでした。

その経験が、大学1年の入部したてのころ、自由な大学のクラブの雰囲気とのギャップに驚き、急速にマンドリンに対して心が冷えていくのでした。



思い出の記、その9「南谷博一氏の独奏」 投稿者:管理人  投稿日: 325()222603

私が高校2年生(1975年)の夏、第10回静岡市内高等学校マンドリンクラブ合同演奏会がありました。
静岡市の高校6校が集い、課題曲「マリニータ」「山吹く風」と自由曲で成果発表しました。
その時の私達高校は「海の組曲」。南谷博一氏の講評でした。結果、静岡精華高校の「華燭の祭典」が1位。私達が2位でした。
演奏終了後、南谷先生が独奏曲を何曲か弾いてくれました。生まれてはじめて聞く、マンドリンの独奏曲です。とても、びっくりしました。旋律の中に伴奏が入っているのですね。高校の時、マンドリンは旋律を弾くもの、ギターみたいに「小さなオーケストラ」のようにはできないだろうと思っていた私には、かなりショッキングな出来事でした。曲名はどうしても思い出せませんが、偶然に大学の時の一つ下の技術的に傑出していた後輩で、社会人ではコンコルで活躍したという今村杉夫くんが、その曲を学生の時に弾いていたのを聞いた事があります。

その時、南谷先生から、大阪で「全国高校マンドリンフェステバル」があるので、うちの高校も翌年出場したらどうかといわれました。
私の高校で私達は12期生なのですが、初めてのことで、大いに同学年で迷いました。結果、6分間の為に大阪まで行くことに、意義を見出せず、辞退しました。私は、賛成派だったのですが、高校3年の受験時に無理してやる必要が感じられないという理由で辞退したと思います。もし出ていたら第6回大会でした(以下参照)

社)全日本高等学校ギター・マンドリン音楽振興会のホームページより、
第6回"High-school Guitar Mandolin Festival"を2日間にわたって開催。(主催 振興会・朝日新聞社、後援 文部省・大阪府・大阪市・大阪府教育委員会、大阪市教育委員会、NHK近畿本部・ドイツ連邦共和国大使館・フランス大使館・イタリア大使館・スペイン大使館)56校 出場者1,500名、聴衆のべ20,000名。これで、北海道、九州の2ブロックを除いては、全日本の各ブロックから代表的な名門団体が出揃った。イタリアの名門シエナ・マンドリンオーケストラの創設者であり、常任指揮者アルベルト・ボッチ氏を講評者として招き、直接指導を願い、大きな収穫を得た。会場は大阪府青少年会館。

今思えば、ぜひ、出たかったなあ。自分達の実力がどの程度だったのか・・・(謎)。



思い出の記、その10「パストラルファンタジーとの出会い」 投稿者:管理人  投稿日: 325()231021

高校3年の9月の音楽演劇発表会でクラブを引退した私は、大学受験にみごと失敗。浪人になりました。その時に、私の一つ下の代が「第1回定演」をやるのだという。とても誇らしげに思いながらも羨ましかったです。
その時のメイン曲が「パストラーレ・ファンタジー」。
感動した。ものすごく。響きが新鮮。びっくり。
どこでこんなすごい曲を見つけたのだろうか・・・。

余談ですが、私の初恋の人はこの時のコンミス。念願の初デートのあと振られました。その初デートが「明治大学マンドリンクラブ静岡公演」。なんかとってもそれらしい()
そのあこがれの君が、涙を流しながら弾いていた「パストラル」。そのはれがましいステージをじっとみつめる私、浪人生・・・。そしてもらい泣き。
う〜ん、青春()
これまた余談ですが、20年ぶりくらいに去年仕事の関係で偶然再会・・・。
きゃー、後ろにワイフが (*o)\バキッ(以下自粛)



思い出の記、その11「浪人の時の夢」 投稿者:管理人  投稿日: 325()235127

浪人の時の夢は、ヨーロッパ放浪の旅。とくにギター大好き、スペイン大好きの私は、アルハンブラ宮殿へ行ってみたかった。受験勉強というプレッシャーの中、その夢は大きくなる一方でした。大学合格したらヨーロッパ旅行。その一念で頑張れたと思います。

無事、合格。
余談ながら、その頃は大学受験した時に、帰り際に電報を頼みました。その大学生のクラブがおそらく部費かせぎだと思いますが、受験番号を伝えて、確か1500円?で、結果の電報をたのみます。今はどうしてるんだろう?結果発表。
現役の時全滅し「サクラチル」しかしらない私は、今でもほんとに嬉しい浪人後の合格電報を憶えています。
「リツメイエイゴウカクス」
「コトニサクラサク」
「ロッコウニハナヒラク」
合格はやはりうれしいものです。いまでもこういう電報あるのでしょうか?

さて、ヨーロッパ旅行のお金をためなければなりません。いろいろバイトをやりました。
そして、クラブは、マンドリンクラブの水が合わず、体育会の卓球部と2つ掛け持ちになってしまいました。マンドリンクラブは週2回の練習で、とてもものたりなく感じたのでした。そして、毎日練習のある卓球部へ。
しかし、現実はきびしく、1年の夏、卓球部の、岡山(全国国公立大会)・東京(三商大戦)への2度の遠征、信州の夏合宿。そして、マンドリンクラブの信州での夏合宿。計4回の遠出で10万円の出費になりました!
当時仕送り6万円でやっていた私は、とても、ヨーロッパ旅行の貯金どころではなく、体力の限界もあり、卓球部をやめました。
そして、無事計画通り3年の夏にヨーロッパへ1ヶ月、行ってこれたのです。
お時間のある方は、以下のページをご覧下さい



思い出の記、その12「ブラボー!」 投稿者:管理人  投稿日: 326()005910

このヨーロッパ旅行中(1980年夏)に、2度ほど「ブラボー!」といわれたことがあります。

パリのゲームセンターでのこと。大学1年の時に爆発的ブームになった「スペースインベーダーゲーム」。私はとても熱中してやっていました。そのあとに出た「ギャラクシアン」というのも得意としていたのですが、それが、パリにあったのです。Today's High スコアがかなり低いので、腕試しにやり始めた所、だんだん後ろにパリっこが集まりはじめました。わざが出ると拍手喝采。とうとう終わった時には、かなりのスコアで「ブラボー!」の掛け声が。
マンドリン合奏では、一度ももらったことないのですが()。岐阜シティさんがうらやましい。

もうひとつは、
スペインのマドリッドからグラナダへの夜行8時間の時、コンパートメントでスペインの家族と一緒になりました。その時の子供がクラシックギターを持っていて、それをかりて、ミニ演奏会。「アラビア風奇想曲」「アストリアス」「禁じられた遊び」など得意のレパートリーを披露。あの頃がギター技術の最高調だったのだと思います。とってもうけたのです。
ああ、もう一回行きたいなあ・・・スペイン。



思い出の記、その13「マンドリンクラブをやめようと思った時」 投稿者:管理人  投稿日: 326()012943

毎日練習の高校から、週2回の大学のクラブになにかもの足りなさをかんじていたころ・・
1年の定演に思いもかけず全ステージに出る事になりました。ギターパートの人数不足ということでした。通常の1年生は1部だけのところ、1.2.3部とも1年の中で私だけが経験者ということで出ることになったのです。2部のメイン曲は「シンプルシンフォニー」(尾園勝善)、3部は、シンフォニエッタNo.2(大栗裕)とハ短調の「序曲」(帰山栄治)でした。いかににもうちの大学らしい選曲でしたが、あまり曲が好きになれませんでした(今思うと大好きな曲なのですが、不思議なもんです)。
そして、練習中はいつでも先輩と行動で、同じ学年の1年生とは同じ練習の時間を共有しませんでした。実はこれって結構きついんです。同じ学年からの疎外感とでもいいましょうか・・・静岡から関西に行って関西弁をしゃべれなかったことも影響し、孤独感を感じました。
定演が終わったらやめようと思っていました。

心残りは、浪人中の時に聞いた「パストラル」!
一度でいいから弾いてみたいなあ・・・。

定演が終わって打ち上げで、3年生の指揮者と4年生の指揮者から、ほんとに思いもかけず、その時の指揮棒をプレゼントされました。夏までは卓球部と掛け持ちで、練習もさぼりがちだった私に、定演でやめようと思っていた私に、戸惑いも大きかったですが、素直に嬉しかったし先輩のやさしい思いに感動しました。背が低い事に劣等感を持っていた私は、指揮者なんて思いもよりませんでしたが、なにはともわれ、クラブを続けよう、そう思い直しました。



思い出の記、その14「ワイフとの出会い」 投稿者:管理人  投稿日: 326()023430

私が2年になって、ギターパートにも新入部員が、男2女1の計3人入ってきました。
1年生は、運営回生の3年生が面倒みるのですが、女1人にたくさんの3年の男の先輩ということで、ちやほやされていたんですね。この後輩が、生意気だったんです。とても。
私とは、すれちがっても挨拶もしない、ピアノ10年というキャリアがなせるわざか、音楽的にも私にひっかかってくる。とってもしゃらくさいヤツだったんです()
仲良くなるまでに、この後1年半以上、あまりしゃべらない状態でした。

しかし、ギターの技術はメキメキ腕をあげ、彼女が3年のころは独奏曲もばんばん弾けるようになり、私が7年かかったのを3年で習得したという感じです。結果、わがクラブ(たぶん)初めての女性ギターチーフになりました。彼女の自慢は、はっしーさんもでた、神戸学生マンドリン連盟の合同演奏でスタバートマーテルのあのアルペジオのギターソロを弾いたことです。



思い出の記、その15「念願のパストラル」 投稿者:管理人  投稿日: 326()234129

私は、大学2年の夏合宿で、指揮者になることが決まりました。立候補なんてとんでもなく、自信がなく劣等感の塊でした。結局、先輩から指揮棒を託されたという事実のみが一人歩きし、同じ学年の中で練習の出席率が一番低い私が指揮者に押されてなりました。

12月の定演のメイン曲は「パストラルファンタジー」。一つ上の先輩指揮の、もう、納得のパストラル! ほんと、しびれました。奏者として最後の演奏会にパストラルを集中して弾けた事は、とても、よかったように思います。音を一音一音繊細に大事に弾く。これ以上は出ないと思うフォルテシモを叩きつける。そんなさまざまな場面が、魂に火をつける。ほんとすばらしい曲だ。

でも、これで自分が指揮することができなくなりました・・・。



思い出の記、その16「東海学生マンドリン連盟の演奏を聞いて」 投稿者:管理人  投稿日: 326()235056

大学2年の夏、名古屋へ1泊2日で、邦人オリジナル曲のメッカとうわさされていた、「東マン」を聞きにいきました。
藤掛先生の「セレナーデNo.4」の初演を聞きました。このHPやってほんと良かったと思ったのは、その初演メンバーの、岐阜大OBの透明人間さんと音信がとれたこと。そして、同じく初演メンバーの岩井邦嘉さんと飲めた事()。その時は、まったく面識のなかった神戸と岐阜の学生が20年経ち、気持ちよく飲める。こんな幸せがほかにあるでしょうか!
藤掛ファンの私は、このHPを通して、あこがれの藤掛作品を次々と世に送り出した岐阜大の同世代の素敵なメンバーにあえたことが、ほんとに管理人冥利につきる、うれしい出来事でした。



思い出の記、その17「指揮者デビュー」 投稿者:管理人  投稿日: 327()001009

指揮者デビュー(大学3年・1980年4月)となる京都演奏会の選曲は、とんとん拍子に決まりました。

静岡東高校の先輩に立命館大学マンドリンクラブの元指揮者がいるという事を知り、お会いした事はなかったのだけど、大阪の枚方(ひらかた)にお住まいという事で連絡してお伺いしました。吉田耕一郎さんという方で、ちょうど鈴木静一先生ご来校12周年OB現役合同演奏会の発起人として一仕事終えた後でした。早速鈴木静一氏の作品を中心としてテープをごそっと借りました。その時に「雪の造形」(鈴木静一)を勧められ、一発で気に入ってしまいました。3つの楽章それぞれに印象の違う素敵な場面があり、その情景が目に浮かぶようでもあり今でも大好きです。
またその先輩宅は、京マンで知り合ったというかわらしい奥さんと合奏の写真、レコードに楽器とマンドリン音楽環境があふれんばかりでとっても素敵でした。あこがれてしまいました。今思えばその刷り込みが、クラブ内結婚にむすびついたのかなあ()

また「群炎I」(熊谷賢一)は、やっぱり高校の先輩の前述の稲葉先輩が神戸市外語大で指揮者をやっていて、そのお勧めです。「雪の造形」は神戸大学初めて、「群炎I」は9年ぶりということで、マンネリ化の打破という点で同回生の賛成もあさっり取れ、気がつけばデビューとしては大変ハードな選曲となりました。

その時のメイン曲は先輩指揮による「詩的二章」。この曲も大好きです。とくに、後述しますグラシャコの指導を受けに藤掛先生宅へお伺いした時に、いただいたテープで知った、国際エリザベート音楽コンクールグランプリ受賞・オーケストラ曲「縄文譜」のリズムが2楽章に使われており、繊細な美しさを持つ1楽章とリズミックな躍動的な2楽章の差がとてもおもしろい。そして、奏者の時はよく判らなかった、プリンシパルの動きが、千葉さんの作品を聞いてとても感動しました。こんな曲だったんだ。すごいなあ。曲と千葉さんの打ち込み。その千葉さんの作品は以下のページで聞けます。(そんなこと知ってるよ!って、すみません(^^ゞ)



思い出の記、その18「桑原康雄氏」 投稿者:管理人  投稿日: 327()001553

大学3年(1980年)の6月、帰山栄治先生から神戸に行くので顔出しなさいという手紙を頂きました。アンサンブルフィルムジカの合宿練習に立ち会うためだそうです。時間や場所は桑原マンドリン研究所に問い合わせてという事でした。まだ帰山先生とお会いした事はなかったので、緊張しながら出かけました。

場所は有馬温泉。思いのほか遠く、やっとのことで着いた時は帰山さん帰った後でした。間抜けだったんですね。私。落胆していると、桑原さん「せっかく来たのだから聞いてって」。マンドリン・ドラ・セロの計7人のアンサンブルで、曲目は帰山先生の新曲「念」。畳の部屋に響く発弦楽器特有の響き。痺れました。めちゃかっこいい。夜の温泉に響くマンドリン。音響を大事にする事、響きを大切にする事学びました。

その後、25回定演(198012月)の後に「歴史的序曲」(帰山栄治)のテープ持って桑原さんのところへ遊びに行きました。リットが止まりすぎて曲の流れが悪いなどなど2〜3アドバイスをして頂き、次の東京演奏会の為に役立ちました。また総評として大変よく弾けてると誉めて頂き、初めて指揮者としての自信を持つ事が出来ました。また楽団を信頼する大事さも同時に教えて頂きました。



思い出の記、その19「サウンドスタジオOKA」さん 投稿者:管理人  投稿日: 327()002340

京都のサウンドスタジオOKAさんには、私達の代の演奏会はすべて録音、レコード等の作成をやっていただいた。
東京演奏会の浅草公会堂の時も来ていただいた。その時の「グランドシャコンヌ」の録音が、藤掛廣幸音楽事務所のCDになってると思うとなんかうれしいなあ。ホールの残響まで上手に録音されていて感謝!などなど岡さんには大変お世話になり、とってもなつかしいです。
演奏会が終ると、私にだけ特別に編集前のテープを速攻でくださり、今でも宝物になっています。演奏会終了後、自分達の演奏をすぐに聞きたいと思うのは人情。ひょっとしたらうまく弾けたんじゃないかと思っている時はなおさらです。
また、「成瀬さんのアラルガンドは独特だねえ」とか、いろいろ感想言っていただけるのも、演奏会録音のプロに批評していただけるのは大変為になりました。ハッシーさん達とやった受難のミサもOKAさんの録音です。

録音業者の方とも上手にお付き合いし、マイクの位置とか、拍手の大きさとかいろいろ相談できると、いいことがあるように思います。



思い出の記、その20「フレット楽器オザキ」さん 投稿者:管理人  投稿日: 327()004155

私のギターは高校1年の時に親に買ってもらった「KOHNOの10号」。
ワイフの楽器は、彼女大学1年の時に手に入れた、なぜか同じ「KOHONOの15号」。私が10号なのに15号というところが、またちょこざいな)。オザキさんで購入です。
その後、私が3年時のギターパート1年生6人、ワイフが3年生の時の1年生15人!のギターはほとんどが私達2人がオザキさんに連れて行き、そこでの購入です。
結果として私達は、いいお得意さん()だったらしく、昨年、オザキさんのHPを見つけメールだしたところ、憶えてると返事いただきました。
後輩が高い楽器を買いに行く時について行ってアドバイスする役は、面倒でもあり、また、責任のある仕事でもあります。そして、数多くのギターに遠慮なく触れる、至福の時でもあります。ワイフなんて100万ものギターを何気なく触らせられ、あわや、買わされそうになっておりました(^^)



思い出の記、その21「松本譲氏」 投稿者:管理人  投稿日: 327()005800

サウンドスタジオOKAさんに、松本譲氏に会うよう強く進められた。
松本氏のお宅は、京都のかなりの旧家であった。さっそく「ちょっとテープ聞いてみて」といわれた。曲目は氏の作品「鬼火の踊り」。曲名どおりリズムの躍動する曲だ。猛スピードで駆け抜ける感じ。
次にかけていただいたのが、演奏とその後の氏の話が大変ショキングだった。曲目はあの名曲「交響的前奏曲」(ボッタキアリ)。テンポがかなりというかめちゃ速い。一番不思議だったのが最初のテンポと、しばらくした後にある1stのすごく美しい所(ラ〜〜シドレシラーシラ〜)のテンポが同じでなくさらに速い。「ここは同じ速さでなくていいんですか?」と質問したところ「かまわない。好きにやればいい。」私は指揮者になって以来、いかにスコアに忠実に演奏するかをテーマにしていたから、驚いた。演奏ってこんなに自由がゆるされているのか・・・。指揮者の責任は重い。考えさせられた。

1992
年、母校の静岡東高校が(たぶん)始めて全国高校マンフェス(第22回)にでた。クラブの顧問の先生とと偶然知り合いだったため、指導を頼まれ、練習に何回か参加し、本番の大阪へ行った。曲目は「過去への尊敬」。審査員に松本譲氏と帰山先生がいて久々のトークで盛り上がりました。こんなことがあると、マンドリンやっててよかったなぁと思いました。

ちなみに、この22回は、ARSの井上さんが指揮者で出たらしい。残念ながら見る事はできませんでした。



思い出の記、その22「龍野順義先生」 投稿者:管理人  投稿日: 327()010757

私の2つ下の後輩のお父さんに、大阪芸術大学で音楽を教えられている方がいると聞いた。いわゆる正統派音楽のプロに、なんか教えていただけたらと思って愛弟子の二つ下の高田君と龍野順義先生宅にお伺いした。(その高田君が龍野先生マンドリン音楽デビュー曲の「3つのアラベスク」の初演指揮者になりました。)先生の雰囲気は、いかにもその筋の芸術家といった感じでした。いろいろ教えていただいた。それをいくつか紹介しようと思います。

◆「2拍子と、8分の6拍子は同じ2つ振りだけど違う」
実際に振って見本をみせてくれた。う〜ん、なんか違う。指先にリズムを感じる。高田君と驚いて顔見合わせたね。その振りが頭にこびりついて、その後の指揮にものすごく生きた。こういうものは、ほんと目の前で見せてもらうに限ります。いくら教則本を読んでも、まさに百聞は一見にしかず。

◆龍野先生に「交響的前奏曲」のスコア見ていただき質問と答え。
「この曲見せ場がいろいろあって、今一つ考えがすっきりまとまりません。」すると、1・2分スコアを見ていた先生は、すごく明快なことをおっしゃいました。
「フォルテ3つの所が、一個所ある。ここが曲の山だ。」
私は漠然と最後の主題の再現が山かと思っていたのですが、そこはフォルテ2つ。先生は、「作曲家は曲の山を必ず意識して作る。そこを中心に曲をまとめればよい。」まさに、目からうろこが落ちるとはこのこと。
指揮者に哲学がいるのかいらんのか、私には悟る時間はありませんでしたが、演奏の最高責任者としては、精進あるのみだと思います。

◆マンドリン合奏の曲を作曲したこと
私が卒業した年の、「3つのアラベスク」の初演の時、龍野先生にお会いした。クラシックのプロが、まだ市民権を得てないマンドリン合奏の曲をよくぞ作曲して下さった事を、感謝しながら、先生に作曲のお気持ちを聞いてみた。私にとって意外なお答えが帰ってきました。
「自分の音楽を発表するには、すごくお金がかかる。奏者を探しホールを借り宣伝して客を集める。たいへんなことなんだ。」と。
この話は、まちがってもけちくさく変な意味でとらないでほしい。私が思う事は、今のマンドリン界のことはわからないが、当時、レパートリーの貧困さが一番の問題だった。パストラルのようなみんなを引き込む曲がきわめてきわめて少なかった。だから上の話は、自分の音楽を発表したいと思っている人が、たとえその人にとってなじみの少ないマンドリン合奏でも、表現手段に使ってみたいと考えても不思議はないということ。これを読んでくれた皆さんの周りにも、きっと名曲を作曲してくれるような人がいるのではないでしょうか。



思い出の記、その23「大栗裕氏&土偶」 投稿者:管理人  投稿日: 327()011700

私が大学3年の時、関西学院さんの定演を見にいった。(指揮者になってから聴きに行くという感じより、指揮を見に行くという意識が強かった。)クラブ練習が毎日あるという関学は、やっぱり上手でした。

とくに大栗裕氏指揮の「土偶」めちゃかっこよかった。4拍子の3拍目がコンマスからギターチーフまで180度ま横一直線、ぶあーという感じの振りがすごい。そして4拍目が金魚すくいのようなしゃくりの動き。私はとうとうまねできなかった・・・。打点などまったく気にせず曲想にあった振り、躍動感あふれる運動神経の良さを感じさせる振り、メトロノーム指揮者からの脱出を目指していた私は、こんな先生に教わる事ができたらどんなに幸せか、と思う反面、「パストラルやりたくても言い出せないんだ」と言っていた関学の友人のことを思うと、どちらが幸せだったかなあ。

「土偶」は一発で気にいってしまいました。4年の最後に振る曲はこの曲にしようと。

この掲示板を見ている皆さんは、生まれて初めて演奏会場で聞いた曲を自分達も演奏してみたいと思った経験はどれくらいありますか? 私は何回かテープで聞いて好きになった曲はたくさんありますが、1回目では数えるほどしかありません。そういう意味で、新曲は初演がすごく大事であり、初めて聞いた人が自分達も演奏したいと思ってもらえるような演奏をすることが大切であり、そう思うとすごくプレッシャーでした。「グランドシャコンヌ」。

大栗裕氏とくれば、この人なりあいさん。そして、私と切磋琢磨しあいながら、作曲家の資料集め。そのなりあいさんのページはここ↓。もちろんみなさま知ってましたね()



思い出の記、その24「帰山栄治先生&華燭の祭典」 投稿者:管理人  投稿日: 327()012531

大学卒業後(1982年)、就職・配属先が愛知県一宮にある電気メーカー。気がつけば、稲沢にお住まいの帰山先生宅まで車で15分。そんなわけで何回か遊びに行かせていただきました。実家の家業に戻った後、クラブの後輩と結婚することになりました。以下、その時の話です。

1985
55日私達は静岡で結婚式を挙げました。
その披露宴に帰山先生は出席してくださり、スピーチもしていただけました。もちろんクラブ内結婚なので、マンドリン合奏をということになり、帰山先生の指揮で、「華燭の祭典」をやっていただきました。指揮のことは、当日お願いしたのに、快く引き受けてくださりました。

その時のこと、
「帰山先生、これ華燭の祭典のスコアです。」
と差し出す私に、
「私を誰だと思っているのですか。」
とニヤリと笑われた。事態を飲み込むまで数秒かかった私は、あっと気がついてスコアを引っ込めました。
「失礼しました!

もちろんスコアなしで振って下さった。う〜ん、やっぱりすごいですね。私達夫婦はおとなしく座って聞いているだけ・・・。帰山先生の指揮で弾きたかったなあ。とささやく2人。でも、とっても、とっても、HAPPYでした。

帰山栄治先生のページときたらこれ↓全国一千万カエリヤマニアのページ()
粂内さん、元気ですか(^^)



思い出の記、その25「指揮者とコンマス」 投稿者:管理人  投稿日: 327()013936

コンマスと1stTOPの差は何でしょうか?
楽団の最高演奏者?つまりは楽団で一番うまいソリスト?う〜ん、そうであるようなないような。

私は、裏打ちはとれないし、調弦狂っててもさっぱり分からん指揮者でした。音楽の教育も小・中の音楽の授業だけ。それなのに、約80名を率いる責任者になっちゃた。これははっきりいってつらかった。一部の先輩から、口の利き方が悪いと怒られたり。(かといって、その先輩達は、音楽は教えてくれないんだな。これが)。指揮者は(私の独断で言えば)おおよそ、孤独です。わからなくて、聞きたいことがいっぱいあっても、自分で考えなくてはならない。ここの曲想や振りがまずいよ。と忠告してくれる人は練習中にはほとんどいません。3/8拍子を1つ振りか3つ振りかすら、わからないんです。実際のところ。

そんななか、私の代のコンミスは、教育学部音楽ピアノ専攻という経歴で(4年の時に帰山先生のコンチェルトファンタジーのピアノを弾いてます)、正式な音楽教育をつまれてたので、ものすごく頼りと支えになりました。私はよく、「これは?」と聞くと、たいてい「ええんちゃう。」という返事で、その返事で安心することが、多々ありました。

そんな、不安一杯の私を実際の演奏会の本番ですくってくれた、コンミスの話です。

指揮者デビューの京都演奏会、2部1曲目「雪の造形」。緊張しました。足ががたがたしました。頭がぼーとして、最初の管楽器のところまったく覚えてません。そしてシャンシャンシャンとなってギターのアルペジオがきて、1stの旋律。左耳元で鳴る、コンミスのトレモロ。そこで、はっとして、我に返りました。まさに、コンミスのトレモロで夢の中から現実に引き戻されました。その後、群炎Tまで、本番が一番良いできとなりました。

その次のジョイント。150名位の大合奏で、「受難のミサ」の後のアンコール。曲名は「木馬」(八つのバラードより)。アンコールの練習はほんとにわずかでした。本番でのこと。私がいつもより遅く振ったせいで8分の6が4分の3かと勘違いが多数起きて、出だし壊れてあわや振り直し! そんな時、まさに闇の中から輝くごとく、コンミスの音が浮き出てきて、演奏が立ち直りました。コンミス1人で曲を立ち直らせたのです。この時のコンミスの気骨あふれる演奏は、いまだに忘れることができません。

みんなの助けがあって生きている。わかっていることこそ、再確認が必要な今日この頃。初心に戻れ。



思い出の記、その26「マンドリンの学生団体の指揮者って」 投稿者:管理人  投稿日: 329()014557

みなさん、アマチュアの学生団体の指揮者をやっていく上に一番必要なことってなんだと思いますか。
音楽的才能・・・・・?
実はその才能は普通ならなんとかなるように思います。では一番大事なことは?

以下、私の主観です。
私は、練習日を1日も休まない事が一番だと思っています。
次に、楽器を一生懸命練習し人前で独奏曲がひけたりすることが大事だと思います。
この二つのことができるといわゆる自他と共に認める「音楽」方面のクラブ漬けになります。クラブ漬けになる人の中には「人間関係の和」方面のクラブ漬けの人もおりますが、指揮者はそれでは駄目です。
もちろん音楽のクラブですから、楽器の弾けない指揮者は、たいへん肩身の狭い思いをします。上手く書けないので、話はわかりにくいのですが、楽器を弾ける才能は指揮者に求められる音楽的な才能と似てて非なるものです。ところが、同じ仲間の目でみていると「楽器が弾ける=音楽の才能がある」となります。そして、この錯覚のまま卒業してしまいます。

指揮者は合奏練習中は絶対の存在です。楽団員に信頼されるということは一朝一夕ではもちろんいきませんが、心から信頼してもらえて、初めて、よい演奏ができることはまちがいありません。
その心から信頼してもらえるには、練習を1日も休まない練習の虫であることとその結果楽器が弾けるという実績が一番です。

私は振り返ってみますと、1年の時は部の掛け持ちでとても不真面目な部員でしたが、2年の夏以降は、たぶんクラブの練習を休んだ事がありません。もちろん団員のみんなから心から信頼されていたなんてことは絶対ありませんが、そのことが、すごく大事だったと思うんです。



思い出の記、その27「粂井謙三さんミニコンサート」 投稿者:管理人  投稿日: 330()001805

私が4年生になり、運営回生がワイフの代に移ったころのことです。
オザキさんへギター購入の新入生をぞろぞろつれっていた上得意のワイフとその友人が、オザキさんのつてで、プロマンドリニスト粂井謙三さんにミニコンサートをやってもらいました。
神戸大学のふもとにある六甲の○○(どうしても思い出せない)で、たぶん、無料?でソロコンサートをやってくれました。私は、マンドリンのソロを聞くのがその時で、2回目です。
今思うと、グランドシャコンヌの初演をしたあとで、あと1回の演奏会で引退する私が、マンドリンソロを聴くのがたった2回目とは!
私と同世代のこれを読まれている皆様、学生時代にマンドリンソロのコンサートって行ったことあります? 私が怠慢だったのか・・・?
演奏の方は、すごいパワフルな演奏で、合奏におけるマンドリンとソロのマンドリンは同じ楽器とは思えないほど、多彩なテクニック、表現に驚かされました。

そういえば、私の大学の後輩に、大西功造くんというプロマンドリン奏者が出たことは、とてもうれしいことです。私の尺度からすると、日本サッカーがヨーロッパで勝ったといことより、もっとすごい信じられないブラボーな出来事です。わかるようでわからんたとえですね()。とにかくびっくりしました。

マンドリンを弾かれている方で、合奏曲中心なら、独奏曲にトライするのもきっとおもしろいことだと思います。



思い出の記、その28「鈴木静一氏からの手紙」 投稿者:管理人  投稿日: 330()005252

私は指揮者デビューの春(京都演奏会)に「雪の造形」、夏にジョイントコンサートで「受難のミサ」、冬の定演で「細川ガラシア夫人」と3演奏会連続で、鈴木静一氏の作品を取り上げさせてもらいました。
当時は、最近よくプログラムに取り上げられる吉水秀徳さんや小林由直さんなどの作品はありません。藤掛先生だって作品が10曲しかないころです。そんなレパートリーが今よりずっと少ない時代でした。私は、日本的な響きのする鈴木静一氏の作品も大好きだったのです。

うちの大学は先輩からの教えで、生存中の邦人作曲家の曲を演奏会に取り上げる時は、必ず作曲家の演奏許可をもらうために手紙を出します。(今もそうだろうか?)。最初の「雪の造形」の演奏許可願いの手紙の返事をいただきました。1980年2月のことです。
手紙の内容は、「京都へ遊びに来なさい」(つまり立命館さんの指導に来ている時に顔をだすように)という内容でした。ところが、なんと、私は畏れ多くて躊躇してしまったのです。
・・・そして、とても残念なことに、その5月に他界されました。
私は、なぜ、あの時、思い切って京都に行かなかったのか・・・とても後悔しました。
それからです、思い出の記で前述しましたように多くのマンドリンの先輩に合うように積極的になったのは。



ありがとう! 投稿者:Hiro Fujikake  投稿日: 331()020432

成瀬賢次さん桂子さん、このページの管理人さんとしての活動本当にお疲れさまでした。きっと楽しんでやっていらっしゃると思いますが、ただ楽しんでいるだけじゃない素晴らしい人間性、細やかな心使いが文章の端々からも感じられて、とても嬉しく拝見しています。多くの素敵な人達の掲示板への書き込みで、今まで会う事も無かった人達がインターネットを通じて知り合い、その輪が拡がっていくなんて嬉しいですね。
僕は、自分で好きで作曲をやってきただけですが「作曲した曲を聞いて喜んで下さる人がいる」と知る事で今までどれだけ勇気付けられてきたかしれません。皆さんありがとう!
千葉修平さんともこのページを通じて知り合いになりましたが、とても素敵な人です。成瀬さんが又、管理人に復活する日まで千葉さんが1年間、管理人を担当して下さる事になりましたが、みんなで自主的にワイワイ盛り上げてあげて楽しいページにして下さい。7万ヒットか77.777ヒット(どちらか分かりませんが)のお祝に又例のプレゼント企画する予定ですので楽しみにしていて下さい。

実は昨日、大学時代の作曲課の後輩が50才で御主人と子供さんを残して亡くなりました。
僕も50才になった時に、ある人から「生誕50年記念コンサートを、、」というメールを頂き「まだ生きておりますので、殺さないで下さい」と返事を出した事がありますが、この世に生を受けた命は必ず死ぬ時が來ます。150年も200年も一人の人間は生き続ける事は出来ません。そう思ってみると2002年の今という時に、この地球上に呼吸していてお互いに出会ったり話したり出来るなんて、なんて凄い事なんだろうかと思います。少しでも楽しい事、嬉しい事、素晴らしい事、美しい事を見つけていきたい、そんな思いと伝えていけるような音楽を作って自分でも多いに楽しんでやっていきたい、と思っていますので、これからも宜しくお願いします。
 



思い出の記、その29「藤掛先生との出会い、そしてGRAND CHACONNE 投稿者:成瀬賢次  投稿日: 331()103640

みられた方もおられるかもしれませんが、藤掛先生に委嘱した時の様子は以下のページにのっております。当時の手紙やスコアの表紙などもUPしてあります。ぜひご覧下さい。

2001年3月、神戸大学マンドリンクラブが音松さんの指揮で京都にて
GRAND CHACONNE(
初演版)   ―委嘱初演20周年記念―
として演奏されました。
その時パンフの、曲目解説に以下のような大変ありがたくうれしい藤掛先生の文章がのっております。

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GRAND CHACONNEは神戸大学マンドリンクラブの委嘱により作曲されたもので、その素晴らしい名演奏により多くの人達に知られるようになりました。2001年で初演から20周年ですが「パストラルファンタジー」や「トレピックプレリュード」とともに多くの人達に愛されて何度も演奏されるようになったのは、神戸大学マンドリンクラブの委嘱のお蔭だと感謝しております。

この曲は最初に吹奏楽の為に「CHACONNE」として作曲し、アメリカでも何度か演奏されましたが、長さも「GRAND CHACONNE」の半分しかなく自分でも気に入らない所があったので、神戸大学マンドリンクラブから頼まれた機会に全面的に書き直して今のような形になったものです。

「GRAND」と付けたのは曲の長さも倍になり、よりダイナミックになったからです。

今度は、このマンドリン・オーケストラ・ヴァージョンの「GRAND CHACONNE」を基にして吹奏楽やシンフォニック・オーケストラ版を完成させたいと思っています。シャコンヌはバロック音楽時代に流行った音楽形式の一つで、8〜16小説のテーマが次々とヴァリエーション(変奏)されていくスタイルです。この曲も16小節の旋法的な響きのテーマが次々と変奏を繰り返して増殖して行き大きな全体像を形作っていきます。(作曲者記)
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本当に先生の暖かさには心しみいるばかりです。光栄な事です。



思い出の記、その30「久保田孝さん、アンケートに・・・」 投稿者:成瀬賢次  投稿日: 331()105438

「GRAND CHACONNE」を初演しました1980年4月の浅草公会堂のアンケート用紙に「久保田孝」というお名前記入の用紙がありました。
私は、あの久保田さんだと、いまだに信じておりますが・・・同性同名ということも?
くらもちさん、確認して〜〜〜。
そこに一言だけぽつりと書いてありました。

「音が固い」

う〜ん、なるほど。指摘されて初めて気がつきました。マンドリン族の音色のことに私は恥ずかしながらまったく考慮したことがなかったのです。今、CD等でいろいろな演奏を聴くと、ほんと、いろいろな音色があることに驚かされます。指揮者は精進あるのみですね。



思い出の記、その31「私がネットに、はまったのは・・・そして、ファンページの開設」 投稿者:成瀬賢次  投稿日: 331()110617

私がそもそもネットにはまったのは、やっぱり出身クラブのことが気になって、検索で、「昔とったきねづかコンサートのページ(神戸大学マンドリンクラブOBのページ)」に辿り着き、認識してお会いしたことのない後輩、杉本さんの以下の文章を読んだのが始まりです。なんかとってもうれしかったのですね。そして、おそるおそるの掲示板への初書き込み、すばやい管理人さんとはっしーさんのレス。これまた、とても嬉しかった。
「ネットって参加できるんだあ。すごいなあ・・・」
それからです、いろいろきねづかさんの掲示板にカキコし始め、前述の「グランドシャコンヌネタ」など、投稿しはじめました。そして、参考CDが自分達の演奏と知り、藤掛先生にメールをおそるおそる思い切ってだしてみて、おもいもかけない感動的返事をいただきました。
その先生からのメールが、うれしくてうれしくて、
「いっちょ、藤掛先生のファンのページを作ってみるか!」となったのが始まりです。
藤掛先生に、主旨を連絡し、トップページをかざる何かをくださいとお願いしました。先生は、3枚の写真を送ってくださいました。(その写真は先生の略歴のページにのっています。)その写真は宝物になっております。

一番の困り事は、私は大学卒業後マンドリンからはなれていましたので、トレピックプレリュードすら知らなかったこと。もちろん、マンドリン関係以外の藤掛先生の活躍も全然知りませんでした。わかってることは、私がパストラルが大好きということと、グラシャコを委嘱初演したという事実だけです。今思えば、ほんとに無謀のスタートだったと思います。

逆に、知ってることがなければ、みんなに教えて貰おう!

こんなに沢山の人から情報いただけるとは思いませんでした。作品リストでは、最初まったくわからなかった初演情報も次から次へと連絡いただき、ほとんどの曲の詳細な情報がUPすることができました。そして。こんなに沢山の楽しい出会いがあるとは、夢にも思いませんでした。
ほんとにありがとうございました。



思い出の記、その32「まだ耳にしたことのない曲を作り上げること」 投稿者:成瀬賢次  投稿日: 331()2334

グランドシャコンヌの時はもうずっとむかしの時代だから、当然スコアだけです。
スコアに記入されている言葉がすべて。Andante cantabileって何? ここのアクセントは、ここのスタッカートは、ここのグリッサンドは? 自問自答の繰り返し。作曲家の意図は? どう振れば? だんだんスピードをあげるacccel どこまであげればいい感じ?
その頭で想像した事を、実際に合奏練習で耳にする。ここはこうしたら、ここはこっちのほうがよいのでは、試行錯誤を繰り返し、完成させていく。耳にしたことのない曲は、先入観がないから、いい面もあり、これでよいのだろうかという疑問がついてまわる。
たった1曲の初演経験。しかし、とてつもない楽しさ。そして責任。

デモテープをとって、藤掛先生のご自宅へ指導をしてもらいに行きました。
ここのドラはトランペットのように、ここはロックのリズムで。ここのアッチェルはもっと速く。いろいろアドバイスもらいました。それの実現のため必死です。自分のひとりよがりの考えで、初めて聴く人に曲のよしあしを決められたら作曲家に申し訳ない。そして、委嘱の予算を捻出してもらったクラブのみんなに申し訳ない。なんとか、曲をあるがままに表現しなくては!
そして、本番の一発勝負。
ああ、楽しかったね学生時代。



思い出の記、最終話「私の老後の夢() 投稿者:成瀬賢次  投稿日: 331()235018

私は定年退職(実際は家業ですので定年はありません(^^ゞ)したら、おいしいコーヒーとパスタのお店をやるのが夢なんです。
お店の名前はもう決まっています。何って?
もちろん「グランドシャコンヌ」()
壁掛けの大画面テレビでは、藤掛先生がシンセを大合唱の前で弾いている「樹魂の歌」「世界の命=広島の心」などなどを映像と音楽で流します。開店の音楽は「妖精の森」。J.ゴールウェイのフルートが流れます。カップルがあらわれると突然セレナーデシリーズが流れます。
そうそう大事なことを書き忘れそうになりました。
バイトは全員マンドリンクラブの女子大生!そう決めています()

思い出の記、たいしたことない文章を書き連ねてしまいました。最後のわがままと思ってお許しください。私は、ここで出会った素敵な人達のおかげで、とても楽しくやってこれました。そして、ほんとに大好きな藤掛先生のおかげでずいぶん感動的な日々をすごさしていただけました。ほんとうにほんとうにありがとうございます。皆様に感謝しております。
ありがとうございました。
そして、私のわがままをこころよく引き受けてくれた千葉さん、このあとをよろしくお願いします。
引き続き皆様の応援よろしくお願いします。





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